陰キャと低脳は生きる資格無し

東大入学式での祝辞が話題になっている。

上野千鶴子氏は東大新入生に「あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです」
「世の中には、頑張っても報われない人や頑張りすぎて心と体を壊した人たちがいる。恵まれた環境と能力を、自分が勝ち抜くためだけに使わずに」
と述べたと言う。

私は今年の春、新社会人になった。
有難いことにいわゆる「大手企業」に入れた私は、そこで勝ち組のバケモノたちに会った。
上野氏の言葉を借りるならば、
「恵まれた環境と能力を、自分が勝ち抜くためだけに使う」バケモノたちに。



彼ら、バケモノたちの第一印象は「ウェイ系」だった。

絵に描いたようなウェイ。好きなのは人コミュニケーションをとること、自分の長所は誰とでも仲良くなれるところ、となんの躊躇いもなく言いきれるコミュ力の高い人達。

一方で私はヘビーな2次元オタクだし、休日はひきこもりたいし、ネガティブだし、神経質だし、自律神経失調症になったこともあるし、
つまるところ、私はウェイとは真反対の人間だった。
ただ一方で、自分をさもウェイですと言うふうに魅せることには長けていた。
私にとっての社会生活とは「明るい自分を演じること」であったからだ。

だから私は、いわゆる「ウェイ」を自分にはなり得ない存在だと思いながら、彼らの中に交じることは苦痛ではなかった。

さらに言うと、私は必ずしも彼らのスタンスを嘲笑していた訳では無い。

「ウェイ」の人たちは、とにかく行動力のある人が多い。
それはもちろん彼らの成功体験に基づいたものなのだろうけれど、それでもやはり、行動には体力が伴うのにそれを平然とやってのけるのは凄い。
また、彼らはとにかく明るい。
私みたいに水を床に零したくらいで死にたくなったりはしないので、一緒にいて気分が落ち込むことも少ない。だから人に愛され、人を集める。

そしてこれは最近気づいたことだけれど、彼らは素っ裸の自分で他人と向き合えるのだ。

どういうことかと言うと、身近にウェイの人がいればわかると思うのだけれど、彼らは初対面の人間に対してまず「自分の情報」を与える。
自分はこんな人間で、こんな趣味で、こんな休日を過ごして...
以前は私もこれを「発信するのはうまいくせに人の話は聞けないエセコミュニケーション」と馬鹿にしていたのだけれど、最近そうではないのだと分かったのだ。
自分を晒すという行為には勇気がいる。
しかし彼らは先に自分の全てを晒し、自分の裸を見せることで、相手の裸を誘いやすくしているのである。
考えて見てほしい。
ガチガチに服を着てコートまで羽織った人に「あなたのことを知りたいから裸になってください」と言われるのと、
会ってすぐ颯爽とスッポンポンになり「これが私の裸です!あなたはどんな感じですか?」と聞かれるのと、
どっちが服を脱ぎやすいですか?
...例えがとても悪いですね。

とにかく、私はいわゆる「ウェイ」の良さも知っていた。
自分にはなれない存在。自分とは違う存在。そう認知しつつも、でもみんな違ってみんな良くて、共存はできるし仲良くもやれる。仲良くした方がきっと楽しい。そう思っていた。
ウェイだからとか、陰キャだからとか、そんな理由でのラベリングは中学時代に済ませてきた。もう飽きた。なんか、悟った。時代は多様性っしょ。そう思っていた。



そう思っていた。



4月。
働き始めて最初の金曜日。俗に言う花金。

私は同期たちに誘われて初めて花金の飲み会に行った。

そこで酔っ払った同期たちの口から出た言葉に衝撃を受けたのだ。

「あの辺は陰キャだからつるまなくていい」
「ろくな偏差値もない低脳はいらない」
「他人のそれなりに幸せな人生を壊してでも自分が最高に幸せになるべき」


ああ.....................

私の心はみるみる中学時代に戻って行った。
野球部だから、文化部だから、可愛いから、ブスだから、勉強が出来るから、馬鹿だから。
そんな、私たちを飾る付属品、たかが付属品で全てが判断されてしまっていたあの頃。


彼ら、彼女らはみんないい大学を出ていた。
大学に行っていない私にもわかる名前ばかりだった。
みんな勉強に集中できる環境が与えられて、予算も惜しみなく注がれたんだろうな。
そんなことを思わせる大学名ばかりだった。

それでも彼ら彼女らは言う。

親がウザイ。お金に困れば親に頼ればいい。

ちょっと、ショックだった。

私も親には何不自由なく育ててもらった。恵まれた家庭環境だったと思う。今でも親は「欲しいものがあれば言いなさい」と言ってくれる。私はありがとうと言いながら、今までのお礼のつもりで親に贈るプレゼントに思いを馳せたりなどする。
だから、ちょっと、ショックだった。
みんなが親に感謝しろとは言わない。でも、ここまで来れたことに何か返せたらな、と少しでも、そろそろ、思ってもいいんじゃないかなぁと勝手にへこんでしまった。



勝ち組。
彼ら彼女らには、その自覚はあるが、なぜ勝てたのかが分かっていないのだと思った。



「あの辺は陰キャだからつるまなくていい」

彼ら、彼女らにとってコミュニケーション能力が高くないことは罪なのだ。
みんな私に優しいけれど、それは私が明るい人間に見えているからであって、本質を知れば途端に私は「つるまなくていい」人間になってしまう。


コミュニケーション能力が高いとか、偏差値が高いとか、そういったことは
先天的能力+努力
で養われると思う。

そしてこの努力という部分には残念ながら生まれ持った家庭環境だったり、親の教育だったりが関わってくる。
すなわち、
先天的能力+先天的環境
とも言えるのだ。
もちろん、不遇な環境から死ぬ気の努力で巻き返す人もいる。
しかしそういう人の努力を100の力とするならば、恵まれた人達は80の力や70の力で同じゴールを得てしまう。


自分一人の力で勝てた訳ではありません。


スポーツ選手などがよく言う言葉だが、人生だってそうだ。
そもそも何が負けで何が勝ちか分からないけれど、自分が得られた喜びが、自分一人の力で成し遂げられたものであることは少ない。



それがわからない人というのはいるのだと、そう実感している今日この頃です。


「社会に出たらな、マジで、自分のことしか考えてないやべぇ奴がいるから、負けんなよ」

そう言ってくれた、一足先に高卒で働いていた、ピンク髪、刈り上げ、ヘビースモーカー、ラウンジの女の子のおっぱい、パチンコ、お酒が大好きな地元の友達の顔がよぎる。
世間は彼を勝ち組とは呼ばれないのかもしれないけれど、彼の方が余程、そこらの勝ち組より真理が見えている気がする。





飲み会の帰り道、駅を出たらホームレスのおじさんがいた。ゴミをかかえて力なく項垂れていた。
誰かが言った。「くっさ‪w」。誰かが「うわこいつ言いよった」という顔をして、みんなが目配せをして、クスクスと笑った。

私は笑えなかった。
夜道が真っ暗でよかったと思った。表情をはっきりと見られなくてよかったと思った。
家に着いて、コートを脱がずにベッドに突っ伏して泣いた。


おじさんがなぜホームレスになったかなんて分からない。
もしかしたら碌でもないことをしてきた人かもしれないし、そうでないかもしれない。
やんごとない事情の末ゴミの中で眠る生活をしているのかもしれない。

でも、いつか私だってゴミを抱えて眠る日が来るかもしれない。
可能性はゼロではない。

勝ち組のバケモノ達はこのことに気が付かず、敗者は自分のせいでそうなっているのだから、努力して報われてきた私達は笑ってもいいのだと、そう思っている。



彼ら、彼女たちが「根暗」「陰キャ」「負け組」そんな言葉を吐く度、私は泣きそうになる。
この人たちはいつか自分が心の病気になったりするかもしれないと想像したことも無いのだろうな、とか思う。




もちろんみんながみんなそうではない。
ウェイとか勝ち組とか、世間から小馬鹿にした名前で呼ばれる彼ら彼女らの中にも、言葉に出来ないような優しい心を持った人もいるし、世の中への感謝や貢献を忘れない人だっている。沢山知っている。

だけど、「優しさ」とか「感謝」とか、そういったものと無縁の人も、いる。
あまりに根本から、悪気なく、彼らはそれらを見捨てることが出来るので、私とは違う生き物に思えてしまった。
だからバケモノなどと呼んでしまった。
彼らから見れば私の方がよっぽど異端でバケモノなのだけれど。