彼が亡くなってから、後悔ばかりしている

小学生の頃、共働きの家庭に育った私は、休みになると同じような境遇の子と寺で集まって遊んでいた。
和尚さんは仏教の話を五分ほどして、私たちに坐禅を組ませたあと、おやつとお茶を出してくれて、それをたいらげたあとはクイズ大会をしたり鬼ごっこをしたりした。

ある日、和尚の所に客人が現れた。
お客さんがいるので今日は離れには近づかないようにと言われたけれど、途中、私はどうしてもトイレに行きたくなった。
トイレは本堂にはなくて、離れにしかない。
同じくトイレに行きたがっていた友人と連れ立って恐る恐るトイレに向かうと、廊下を挟んで向かいの部屋で、話し声がしていた。
友人がトイレを済ます間、私はじっと、その部屋から聞こえる声に耳を傾けていた。


「彼が亡くなってから、後悔ばかりしているんです」
女性らしき人が言う。
どうやら女性は先日、大切な人を無くして、和尚さんに手を合わせてもらった人だったらしい。
「毎日後悔します。もっとああしてあげればよかった、こうしていれば良かったって」
悲痛な声で言う女性に、和尚さんがかけた言葉が、私は今でも忘れられない。

「それでいいんですよ。後悔するということは、その人のことを思い出すということです。思い出して忘れない限り、あなたの中で彼は生き続けます。だから、それでいいんです」

そうかあ、と思った。

私は当時まだ小学生だったけれど、既に2人の友人を亡くしていたこともあって、なんとなく生死について思いを馳せることの多い子だった。
そして自分の中で悶々としていた、「死」や「大切な人を失う」ということについて、その時、和尚さんの言葉がストンと胸に落ちてきて、納得してしまった。



3.11
あの未曾有雨の大災害が起きた時も、私はまだ小学生だった。
学校から帰宅してテレビをつけたら、どこかで火災が起きている映像が流れていた。
右下には日本地図が出ていて、津波警報、注意報、とあり、赤もしくは黄色で地図が塗られていた。
その衝撃、記憶はあまりに鮮明だけれど、あの日からもう9年も経つ。
鮮明と感じている記憶だけれど、果たして、危機感はあの時と同じ温度で、それこそ鮮明に、抱けているのだろうか。

人は忘れる生き物だ。
だけど、思い出すことも出来る。

人の死と同じだ。
あの日の後悔、恐怖、危機感、それらを毎年この日に思い出す。
災害の記憶を思い出す限り、私達はあの日の危機感を鮮明に抱き続けることができるのではないだろうか。

今日という日はあの日と地続きだ。
まだ家族が見つかっていない人、地元に帰れていない人。
それこそ文字通りあの日の続きの今日を、あの災害を終われていないまま今日を迎えている人達は沢山いるのだと思う。

私達も、終わらせてはいけない。
思い出してあの日の続きを生きていることを自覚し、備える。


思い出す限り、私たちの中では生き続けるのだ。
愛おしい人も、あの日感じた自然の驚異も、そこからの学びも。




我が家では災害時の避難場所について家族で話し合って決めているし、水、非常食、懐中電灯などが入った非常バッグも用意して定期的に中身を確認しています。
皆さんも、備えを忘れずに。何かあった時に、自分を守れるのは自分だけです。