認められたい私たち

二次創作という文化がここまで発展した背景には、「作品公開→承認」という流れがあったことは否定できないと思う。

同じ作品・キャラクターを愛する人たちが、自分の思う萌えの形に賛同してくれて、加えて筆力を褒めてくれる。これより気持ちいいことはきっとない。

 

だけど、ふと二次創作を離れたとき、私たちの創作力は浮き彫りになる。

 

例えば二次創作は、キャラクターや物語の本筋が共通認識としてすでに存在している。

日本人のほとんどが「桃太郎」と聞けば「桃から生まれて鬼を倒す男」と思うのと同じように、

とあるキャラクターの名前を出すだけで、そのキャラの立場、背景、性格が読み手にはすでに伝わっている。

 

これは色々な価値観があると思うけれど、私が思う二次創作は、

「インスタントラーメンを茹で、調理すること」

であり、一次創作等のオリジナルの創作というのは、

「ラーメン? どのレベルから作るの? 小麦から?」

と小麦栽培をスタートにラーメンを作ることだと思うのだ。

つまりそれくらい土台があるのとないのとでは、創作の難しさは異なるように感じている。

もちろん、元来料理がうまい人はインスタントラーメンをおいしく調理してしまう。

野菜炒め追加しちゃったり、煮卵付けちゃったり。

逆に料理が苦手な人は、インスタントラーメンでも自分の理想の形に作ることができないこともある。

二次創作における、「上手い下手」とはそういう事だと言う風に私は理解している。

 

 

認められたいとか、私にしかできないことをしているという自尊心を持ちたいと言う気持ちは二次創作をしていればどうしてもやはり芽生えてしまう。反応がたくさんもらえるから。はじめは確かに、萌えの追及のためのツールだった創作活動が、いつからか承認欲求のための創作活動に据え代わってしまうのだ。

だけど承認欲求を満たすためのツールが「創作活動」でなければならない理由はない。

 

二次創作でそれなりに人気を博していた作家がいたとする。

その人はある日突然、歌の才能が世間に広く認められた。オリジナルソングが最高だとネットでバズる。それでもなお創作を続けるのならば、その人の行動原理はきっと「萌え」で、二次創作のことなど全て忘れて歌だけやっていくのなら、きっとその人の行動原理は承認欲求だったのだろう

(なおこの例題において二次創作における権利問題などは一度置いておく)

 

 

 

私もたまに、考えてしまう。

私は文章を書くことが好きだけれど、それは本当に、「文章を書くことが好き」という以上の意味を持たないのだろうか。

二次創作のように反応が大きく帰ってくる、「即席でおいしいものができる」とどうしてもそれで満足しそうになる。

私が好きなのは、「文章を書くこと」なのか、はたまた「認められること」なのか。

 

 

例えばはっきりと後者だと自認してしまったならば、私はそのときは筆を折りたい。

今のところはまだ、私は文章を書くことが好きで、たとえ誰にも反応がもらえなくても文章を書くことを止めることはできないけれど。

 

 

DJ松永さんは言った。

「ヒップホップで成り上がろうと考えてる奴は上には行けない。DJが、ラップが生理現象だってやつだけが結果的に成り上がる」

自分にとってDJとは生理現象だと語った彼は、先日、世界一に輝いた。

 

 

いつだって私の一番の行動原理は、「好き」と「萌え」でありたい。

もちろん承認欲求をゼロにすることは人間なのでできないけれど、常に認められたいけれど、それでもやっぱり一番は「好き」でありたい。