映画館で喋らないと死ぬ病気のお前、自分が思ってるより恨まれてるからな

映画上映中に喋るな。


全う。至極真っ当かつシンプルでわかりやすいルール。
リュックは前に背負いましょうね、降りる人がいる時はドア付近の人は1度降りましょうね、みたいな満員電車のマナーより余程わかりやすい話だ。
映画が上映しているおよそ1時間半から2時間半の間、喋るな。
なぜか?
当たり前だ。そこは映画館であってテメーの家ではない。
お話しながら映画が見たいならぜひお家でNetflixでも見ていてくれ。
あなたが口を開いた途端、あなたと私は同じ成人として同じ値段で「映画を見るという時間と空間」を買ったはずなのに、その価値に相違が生まれてしまう。同じ1800円に、違う価値が生じてしまうのだ。
あなたは自らの欲求に従ってペチャクチャお話してきて満足だろう。さぞ有意義な1800円の使い方だと思われる。
だけどこちらは、「静かに」映画を見に来て、映画に集中できる環境を購入しているのに、価格以下のサービスを受けることになってしまうのだ。誰のせいで? あなたのせいで。

映画館で話す人ってまず、何をどういう気持ちで話しているんですか?
もしかして、周りに聞こえてないと思ってます?
聞こえてる聞こえてる、バリバリ聞こえてるよ。だっておめー以外この空間で話してるやついないんだよ。

いいじゃん少し話すくらい。って?
いや、よくないのよ。
映画上映中に話されたくない人って言うのはね、君たち「平気で話す人種」が思ってるよりよっぽと君たちのことを恨んでるし普通に「社会的に失敗しろ」位のこと思ってるよ。
まあ、たかが1時間半から2時間半黙っておすわりできない駄人間が無理ゲーコンテンツな社会とかいう場所でやって行けるとは思いませんが。
ただ映画館でお話出来てしまって、周りの迷惑に鈍感でいられる人は、きっと自分の失敗にも鈍感なので幸せに生きていってしまうんでしょう。
あーあ、辛い。


こういう話をすると必ず「静かに映画を見るのは日本だけだ!海外では~」みたいな反応をしてくれる人がいるのだけれど、ワイワイ映画が見たい時は私も海外に行くことにしますね、教養をありがとう。
そして私は9割9部9厘日本の映画館で映画を見るのだ。
なぜか? 静かに映画が見たいからだよ!!!

じゃあお前がもう家でアマプラでもHuluでも見てろよ。静かだろ。って?
うるせー!ばーーーか!!!
なんでいじめっ子は学校行けなくなるのにいじめてたやつは平気で学校行けるんだよ。
同じことだからこれ。
正しいやつが正しい居場所を得るべきで、排斥されるべきは間違ってる方だから。
何が正義で悪なのか、倫理観がブラッシュアップされてきて難しい時代ではあるけれども、

日本の映画館で映画上映中に話すやつは悪!!!!!!!!!!!!

これだけは明確な善悪の悪なので、それでもどうしてもお喋りしたい人は自分のしてることが極悪非道であり、私と映画の配膳会社の間で結ばれた、「金銭⇔映画およびその上映環境」の契約をぶっ壊しているという自覚を持って悪事を働いてね!!君は悪だよ!!



PS,この前映画上映中のスクリーンの様子をフラッシュ付きで何度も写メってたジジイ。論外中の論外だからな。
楽に死ねると思うなよ。
(ジジイはエンドロール中に去っていったので劇場の人に通告も出来ませんでした。無力)

吉沢亮と現実の男をガチで比べてしまう女

地獄を共にしている友人がいる。
彼女の名をHとしておく。

Hは人生の生き辛さを共有できる数少ない友人だ。
しかしながら生活スタイルや来歴には大きな違いがある。
では、なぜ地獄を共有できるかというと、もちろん、職業や趣味などの相違点を上回るほどの共通点があるからだ。

例えば、私達は基本的に人が嫌いだ。
厄介なのが、この嫌いというのが「心から嫌悪している」と言うより、「人と上手く関わっていく努力が面倒」なのだ。私達は健常者より、人と関わることにエネルギーを使ってしまう。だから人が嫌いだ。人という生き物はむしろ好きなはずなのに。厄介。実に厄介。

次に、プライドが高い。
自己肯定感が低いくせにプライドが高いので、面倒を極めている。
人にマウントを取られるのが嫌いで、それを回避するための努力工夫はするくせに、自己肯定感が低いのでそんな自分を卑しく思うし、努力によって得た能力に満足できない。
そんな人間がどう考えるようになるかというと、
「こんなグズでゴミな私にさえできることがなぜ出来ないのか」
と周りに必要以上の低評価を下すようになる。
書いていて自分でも改めて思うのだけれど、クズである。
自覚しているならひねくれた考え方はやめて欲しいものだ。


やめて欲しいものだ、等と他人行儀な書き方をしてしまったが、この当たりも私たちの共通点だ。
自分たちの価値観の問題点、世間から外れた部分をしっかり自覚している。自覚しているけれど、自覚している自分と、自分の人生を取り仕切っている自分が何故か剥離したような感覚で、課題点を改善することが出来ない。
分析能力、自覚力に長けているものの、素直じゃないのでそれを取り込み消化していけない。


このように、問題だらけで甘ったれた社会不適合者な私たちだけれど、最近新たに共通点があることが発覚した。

私達は、
吉沢亮と現実の男をガチで較べてしまう」
のだ。

社会で生きる大抵の女性は、自身の身の回りの男性を身の丈にあった物差しでジャッジして交際をするものなのだ。

例えば自分に好意を寄せてくれているいい感じの男性がいたとする。
顔もスタイルも最高のイケメンではないが垢抜けている。話も合うし面白い。
そんな男性がいたとして、世の中の大抵の女性はそこからスムーズに恋愛関係に発展させることが出来る(らしい)
しかしながら私たちは、ある程度男性と距離が縮まった段階で思うのだ。

──あ、この人吉沢亮よりかっこよくないな。


当たり前だ!!!!!!!!!
当たり前。至極当たり前。なんせあの吉沢亮吉沢亮と比べているのだ。15cm物差しでダニの身長を測ろうとするくらいめちゃくちゃな物差し。所謂不可能。
しかし私たちは本気でそれをしてしまう。
ダニにものさしを当てて、「なんだちっちぇーな」と萎えてしまう。
いい感じの男性をダニになど例えて大変申し訳ないのだが、私達は吉沢亮を自分の恋人となる人の物差しとしているので、感覚としてはそのようなものなのだ。
自分たちもダニなのに、ダニを測るのに一丁前に定規を持ち出すのだ。


ある時彼女、Hの物差しは推しである某ジャニーズアイドルになるし、私の物差しはイケメン声優になったりする。

とにかく、私達は自分たちに不釣り合いなものさしを持ち出して、勝手に萎える。
だから私達は極端に男性経験が少ない。
男性経験というか、まあそもそも人間経験が疎かで苦手であるので当たり前だけれど、自分の身の回りの男性を恋愛対象と出来ないのだ。


ごちゃごちゃ言うけど要は理想が高いんでしょ。

まあ、その通りです。
そして再三言うが、これは恐らく男性にだけではなく、人間全般に対して理想が高い。
ので友人も極端に少ない。
ただし我々のような異質な人間は、根暗さをネタにすると同性に好かれる節がある(恐れ多いが例にあげると、オードリー若林や南海キャンディーズ山里のような芸風で一般社会を生きているような感じ)
ので、限られた友人の質はピカイチだという自負もある。
そしてその友人の中でも地獄を共有できるのが、何よりもこの、Hなのである。



Hと「地獄オフ会」と称して2人で早朝のコメダに集合し、世の中はくそだ、と宣う。
Hは言う。

「周りの人は皆、人生辛いと言いつつなんだかんだ楽しそうに生きてる。私の言う人生辛いは、アンタの言うそれなんだよなぁ」

私は笑った。
笑って、また2人で下世話な話と「おっさんのメガネは脂ぎってて臭い」等の話でまた笑って、笑って、とにかく笑って、ふと2人してコーヒーに視線を落として、息をするように呟く。

「あ~あ、早く何もかもめちゃくちゃになんねえかなあ」

あまりに切実なHの呟き。
むしろ呟きと言うより呼吸のように自然に溢れ出てきたその言葉に、私はまた、笑ってしまった。
笑いながら少し泣いた。




何を隠そう、そんな生き辛い生き物がいるよ、というだけの話でした。
恐らく世の中には「自分は不適合者であるというマイノリティを感じているマジョリティ」が居て、自分もその一端であって、私の生き辛さなんて平凡なものなんだろうとも思う。けど、地獄は確かに存在していて、今、ナウ、現状、この瞬間に私を苦しめている地獄から逃避するには、やっぱり私たちは、目の前の男性なんかに救われることは出来なくて、吉沢亮を求めてしまう。



(ps)現状1番結婚したいのはDJ松永さんです。求婚、待ってます。

機嫌の悪い大人たち

社会人になってびっくりしたことがある。

みんな、びっくりするほど機嫌が悪い。

特におじさんと呼ばれる年代の男性の機嫌の悪さ、そしてそれを誇示しているかのようなオーラ、態度。
駅でぶつかった時舌打ちしてくるおじさん、あれは変わり者だと思っていたけど、おじさんという生き物全体のマジョリティだったのかもしれない。最近そう思い始めた。

ただ機嫌が悪いだけなら「この人怖い」と距離を置けばいいだけだ。
でもおじさんたちの怖いところは、「職場では針山のように尖った態度で機嫌の悪さを前面に出してくるくせに、お酒の場になると途端に仲良くなりたくて仕方が無い様子でソワソワ擦り寄ってくる」ところなのだ。

怖い。これがただただ怖い。
DV男のような理不尽さ、情緒不安定を感じてしまう。

私と仲良くなりたいなら仲良くなりたいなりの態度というものがあると思う。
別に特別親切にしろと言うんじゃなくて、例えば話しかけたら返事してくれる、とか、その程度の話を私はしている。
仕事中の私はお荷物で、邪魔者で、時間を食う新人で、お酒の席での私は一発芸で沸かす芸人で、熱い議論に見せかけた旧時代的な精神論に全肯定で相槌を打つおもちゃで、断りもなく肩をだいたり手を握っていい性的対象だ。

私は社会を回す歯車としての役割を担いたくて仕事をしているわけで、おじさんたちの即物的な怒りや性的欲求を満たすために働いている訳では無い。

そしてせめて、若くて無能な女として即物的欲求の掃き溜め便器としての役割しか私にないと言うのなら、怒りか性欲か、ぶつけるのはどちらかにして欲しい。

殴った後に愛してると囁くDV男はヤバくて異端な存在と誰もが認めるのに、不機嫌を隠しもしないおじさんが飲み会では肩をだいてくることは当たり前な世の中の空気は何なのだろう。


そもそも大人って、自分の感情を殺してコミュニケーションを円滑に進められる人のことを言うんだと思っていた。
幼稚園児より面倒な情緒を持ち合わせたあの臭い生き物たちは、一体なんなのだろう。それが「おじさん」なのだろうか。


「お前らが想像してる最悪の地獄よりさいっっっあくの地獄がこの世にはあるからな」

春、Creepy Nutsオールナイトニッポン0でDJ松永が言っていた。
想像していた地獄なんて「当たり前」の範疇なのだと今身をもって実感している。ということは、まだまだもっと深い地獄が待っている。
人と関わらず生きていく方が絶対に楽じゃないか?社会ってなんだこれ。

私は父の事が好きではなかった。
いい人なのはわかるけど、いい人なんていうのは人として最低のラインであって、尊敬の対象にはならない。
むしろ芸術やエンタメへの理解が浅い父とは会話や価値観が共有できず、根本的に合わないと壁を作っていた。
でも、今ならわかる。
父はいい人だ。それだけで、この世の中では素晴らしく出来た人間だ。
父は不機嫌を撒き散らさない。それが仕事であれば尚更、感情は軽々しく他人に見せない。女性には触らない。これに関しては私が見ていないだけかもしれないけれど、だけど、自分の娘のような歳の子の手を握って唾を撒き散らしながら支離滅裂な会話をしたりはしていない確信がある。
父はこの世では凄い人だ。
でも、変な話だけれど、私は父が凄いと崇められるような世の中であって欲しくなかった。
父のようであることが当たり前な世の中であって欲しかった。


中学時代、いじめられていた私は、その時に優しい人になろうと誓った。
誰が見ても優しく、外面だけでも最大限和やかに。
それが社会で生きる責任で、そうしなきゃ社会には受け入れて貰えない。そう思っていた。

そうでもないな。

気づいてしまったよ、15の自分、ごめんな。
社会、思っていたよりいい人じゃなくても生きていける。
優しくなくても生きていけるらしいわ。
大人はみんな機嫌が悪いから、無理して感情殺して笑って「大人になりたい」なんて思うものじゃないよ。
あなたがなるべきは大人じゃなくて、「自分の思う最高の自分」であってしかるべきだよ。
大人に期待しちゃだめだよ。


少なくとも私は、後輩たちが社会に出た時味方になれるような居場所でありたいから、こんな所で折れてやらない。
例え入った途端に「結婚はいつ?」と聞かれ、辞める時期を図られるような会社だったとしても、やめてやらない。

「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

私には高校生時代、とにかく尊敬していた先生が居た。
彼女の名はM先生。

先生は世間的に言うところの「美人」で、スタイルもよく、いつも背筋がしゃんと伸びていた。
滑舌が良く、端的な語り口で話し、あまり笑顔を見せない。一見するとクールな人だった。
一方で連休明けには「二日酔いで頭ガンガンしますねえ」と言いながら出勤してきたり、意外とお喋りで恋バナが好きだったり、「非モテ教師同盟」という不名誉な同盟を勝手に作り上げていたりする、おちゃめな一面もある人だった。



先生は国語の教師で、それらしく、数々の名言を生み出した。
例えば、喫煙のことを「緩やかな自殺」と評したりだとか。私は先生の感性と、そこから放たれる鋭いワードが大好きだった。

そんな先生の言葉の中で、近頃、ふと思い出したものがある。


ある時先生は「食事」について話していた。
何故その話になったのかは覚えていない。ただ、教室の空気は淀み、早く授業終わらないかなという皆の心の声が可視化できるようだったのは覚えている。
そんな弛んだ空気を気にもとめず、先生はいつものトーンで淡々と言った。

「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

えぇ、と私は小さく笑う。
先生は続ける。

「だって、欲を満たそうという姿を人に見られるのって恥ずかしくないですか? 性欲を満たそうとして性交している姿を他人に見せるのはもちろん恥ずかしい。睡眠欲のために人前で思い切り寝顔を晒すのも恥ずかしい。なのに何故、食事は食欲を満たす行為なのに人前で行うんでしょうね」

衝撃だった。
いわゆる3大欲求と言われる、食欲、睡眠欲、性欲。
これらを満たす行為のうち、堂々と他人に見せられるのは確かに食事だけなのだ。



最近、ある映画を見た。
とらわれて夏』。
脱獄犯と人質となったとある親子の数日間の交流を描いた映画だ。

この映画、見たことのある人はわかると思うのだけれど、とんでもなく「エロい」。

そこらの官能映像より余程エロい。
レーティングされるような描写は無いにも関わらず、主人公の少年から見た「脱獄犯の男とシングルマザー」という大人の男女に漂うエロスを見事に描き切っている。

そしてそのエロスを支えている大きな要素が「食事」だった。

脱獄犯が手際よくトマト缶を調理して、母に振る舞うシーン。
ただ、大の男が、調理をして人質である女に食わせる。それだけ。
それだけなのにたまらなく性的で、夜行バスでこの映画を見ていた私は思わず周りの目を気にした。


加えて脱獄犯と親子が桃のタルトを作るシーン。
これは、もう、すごい。
自分が男じゃなくてよかったと思った。
男だったら、夜行バスで、桃のタルトを作るシーンを見ながら勃たせている不審者になる所だった。
それくらい官能的なシーンだった。

母が震える手でパイ生地を完成させるシーンには絶頂を見たし、その後パイ生地にフォークで模様を描くシーンはさながら穏やかなピロートークのようだった。


そこで私は、先生の言葉を思い出したのだ。

「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

なぜなら欲を満たす行為という点で、セックスも、食事も同じ。
より生命の存続に直結するという点ではセックスより更に重要な行為であるとも言える食事だ。
食というエロス。
食事という行為の背徳。
夜行バスで、隣人の男性の加齢臭といびきをBGMに、先生の言葉の真意を見た。



と、食のエロス、背徳、などと言いながら、終点の京都で下車した私はもりもりと京都のグルメを楽しみました。
茶そば、美味しかったです。

陰キャと低脳は生きる資格無し

東大入学式での祝辞が話題になっている。

上野千鶴子氏は東大新入生に「あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです」
「世の中には、頑張っても報われない人や頑張りすぎて心と体を壊した人たちがいる。恵まれた環境と能力を、自分が勝ち抜くためだけに使わずに」
と述べたと言う。

私は今年の春、新社会人になった。
有難いことにいわゆる「大手企業」に入れた私は、そこで勝ち組のバケモノたちに会った。
上野氏の言葉を借りるならば、
「恵まれた環境と能力を、自分が勝ち抜くためだけに使う」バケモノたちに。



彼ら、バケモノたちの第一印象は「ウェイ系」だった。

絵に描いたようなウェイ。好きなのは人コミュニケーションをとること、自分の長所は誰とでも仲良くなれるところ、となんの躊躇いもなく言いきれるコミュ力の高い人達。

一方で私はヘビーな2次元オタクだし、休日はひきこもりたいし、ネガティブだし、神経質だし、自律神経失調症になったこともあるし、
つまるところ、私はウェイとは真反対の人間だった。
ただ一方で、自分をさもウェイですと言うふうに魅せることには長けていた。
私にとっての社会生活とは「明るい自分を演じること」であったからだ。

だから私は、いわゆる「ウェイ」を自分にはなり得ない存在だと思いながら、彼らの中に交じることは苦痛ではなかった。

さらに言うと、私は必ずしも彼らのスタンスを嘲笑していた訳では無い。

「ウェイ」の人たちは、とにかく行動力のある人が多い。
それはもちろん彼らの成功体験に基づいたものなのだろうけれど、それでもやはり、行動には体力が伴うのにそれを平然とやってのけるのは凄い。
また、彼らはとにかく明るい。
私みたいに水を床に零したくらいで死にたくなったりはしないので、一緒にいて気分が落ち込むことも少ない。だから人に愛され、人を集める。

そしてこれは最近気づいたことだけれど、彼らは素っ裸の自分で他人と向き合えるのだ。

どういうことかと言うと、身近にウェイの人がいればわかると思うのだけれど、彼らは初対面の人間に対してまず「自分の情報」を与える。
自分はこんな人間で、こんな趣味で、こんな休日を過ごして...
以前は私もこれを「発信するのはうまいくせに人の話は聞けないエセコミュニケーション」と馬鹿にしていたのだけれど、最近そうではないのだと分かったのだ。
自分を晒すという行為には勇気がいる。
しかし彼らは先に自分の全てを晒し、自分の裸を見せることで、相手の裸を誘いやすくしているのである。
考えて見てほしい。
ガチガチに服を着てコートまで羽織った人に「あなたのことを知りたいから裸になってください」と言われるのと、
会ってすぐ颯爽とスッポンポンになり「これが私の裸です!あなたはどんな感じですか?」と聞かれるのと、
どっちが服を脱ぎやすいですか?
...例えがとても悪いですね。

とにかく、私はいわゆる「ウェイ」の良さも知っていた。
自分にはなれない存在。自分とは違う存在。そう認知しつつも、でもみんな違ってみんな良くて、共存はできるし仲良くもやれる。仲良くした方がきっと楽しい。そう思っていた。
ウェイだからとか、陰キャだからとか、そんな理由でのラベリングは中学時代に済ませてきた。もう飽きた。なんか、悟った。時代は多様性っしょ。そう思っていた。



そう思っていた。



4月。
働き始めて最初の金曜日。俗に言う花金。

私は同期たちに誘われて初めて花金の飲み会に行った。

そこで酔っ払った同期たちの口から出た言葉に衝撃を受けたのだ。

「あの辺は陰キャだからつるまなくていい」
「ろくな偏差値もない低脳はいらない」
「他人のそれなりに幸せな人生を壊してでも自分が最高に幸せになるべき」


ああ.....................

私の心はみるみる中学時代に戻って行った。
野球部だから、文化部だから、可愛いから、ブスだから、勉強が出来るから、馬鹿だから。
そんな、私たちを飾る付属品、たかが付属品で全てが判断されてしまっていたあの頃。


彼ら、彼女らはみんないい大学を出ていた。
大学に行っていない私にもわかる名前ばかりだった。
みんな勉強に集中できる環境が与えられて、予算も惜しみなく注がれたんだろうな。
そんなことを思わせる大学名ばかりだった。

それでも彼ら彼女らは言う。

親がウザイ。お金に困れば親に頼ればいい。

ちょっと、ショックだった。

私も親には何不自由なく育ててもらった。恵まれた家庭環境だったと思う。今でも親は「欲しいものがあれば言いなさい」と言ってくれる。私はありがとうと言いながら、今までのお礼のつもりで親に贈るプレゼントに思いを馳せたりなどする。
だから、ちょっと、ショックだった。
みんなが親に感謝しろとは言わない。でも、ここまで来れたことに何か返せたらな、と少しでも、そろそろ、思ってもいいんじゃないかなぁと勝手にへこんでしまった。



勝ち組。
彼ら彼女らには、その自覚はあるが、なぜ勝てたのかが分かっていないのだと思った。



「あの辺は陰キャだからつるまなくていい」

彼ら、彼女らにとってコミュニケーション能力が高くないことは罪なのだ。
みんな私に優しいけれど、それは私が明るい人間に見えているからであって、本質を知れば途端に私は「つるまなくていい」人間になってしまう。


コミュニケーション能力が高いとか、偏差値が高いとか、そういったことは
先天的能力+努力
で養われると思う。

そしてこの努力という部分には残念ながら生まれ持った家庭環境だったり、親の教育だったりが関わってくる。
すなわち、
先天的能力+先天的環境
とも言えるのだ。
もちろん、不遇な環境から死ぬ気の努力で巻き返す人もいる。
しかしそういう人の努力を100の力とするならば、恵まれた人達は80の力や70の力で同じゴールを得てしまう。


自分一人の力で勝てた訳ではありません。


スポーツ選手などがよく言う言葉だが、人生だってそうだ。
そもそも何が負けで何が勝ちか分からないけれど、自分が得られた喜びが、自分一人の力で成し遂げられたものであることは少ない。



それがわからない人というのはいるのだと、そう実感している今日この頃です。


「社会に出たらな、マジで、自分のことしか考えてないやべぇ奴がいるから、負けんなよ」

そう言ってくれた、一足先に高卒で働いていた、ピンク髪、刈り上げ、ヘビースモーカー、ラウンジの女の子のおっぱい、パチンコ、お酒が大好きな地元の友達の顔がよぎる。
世間は彼を勝ち組とは呼ばれないのかもしれないけれど、彼の方が余程、そこらの勝ち組より真理が見えている気がする。





飲み会の帰り道、駅を出たらホームレスのおじさんがいた。ゴミをかかえて力なく項垂れていた。
誰かが言った。「くっさ‪w」。誰かが「うわこいつ言いよった」という顔をして、みんなが目配せをして、クスクスと笑った。

私は笑えなかった。
夜道が真っ暗でよかったと思った。表情をはっきりと見られなくてよかったと思った。
家に着いて、コートを脱がずにベッドに突っ伏して泣いた。


おじさんがなぜホームレスになったかなんて分からない。
もしかしたら碌でもないことをしてきた人かもしれないし、そうでないかもしれない。
やんごとない事情の末ゴミの中で眠る生活をしているのかもしれない。

でも、いつか私だってゴミを抱えて眠る日が来るかもしれない。
可能性はゼロではない。

勝ち組のバケモノ達はこのことに気が付かず、敗者は自分のせいでそうなっているのだから、努力して報われてきた私達は笑ってもいいのだと、そう思っている。



彼ら、彼女たちが「根暗」「陰キャ」「負け組」そんな言葉を吐く度、私は泣きそうになる。
この人たちはいつか自分が心の病気になったりするかもしれないと想像したことも無いのだろうな、とか思う。




もちろんみんながみんなそうではない。
ウェイとか勝ち組とか、世間から小馬鹿にした名前で呼ばれる彼ら彼女らの中にも、言葉に出来ないような優しい心を持った人もいるし、世の中への感謝や貢献を忘れない人だっている。沢山知っている。

だけど、「優しさ」とか「感謝」とか、そういったものと無縁の人も、いる。
あまりに根本から、悪気なく、彼らはそれらを見捨てることが出来るので、私とは違う生き物に思えてしまった。
だからバケモノなどと呼んでしまった。
彼らから見れば私の方がよっぽど異端でバケモノなのだけれど。