「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

私には高校生時代、とにかく尊敬していた先生が居た。
彼女の名はM先生。

先生は世間的に言うところの「美人」で、スタイルもよく、いつも背筋がしゃんと伸びていた。
滑舌が良く、端的な語り口で話し、あまり笑顔を見せない。一見するとクールな人だった。
一方で連休明けには「二日酔いで頭ガンガンしますねえ」と言いながら出勤してきたり、意外とお喋りで恋バナが好きだったり、「非モテ教師同盟」という不名誉な同盟を勝手に作り上げていたりする、おちゃめな一面もある人だった。



先生は国語の教師で、それらしく、数々の名言を生み出した。
例えば、喫煙のことを「緩やかな自殺」と評したりだとか。私は先生の感性と、そこから放たれる鋭いワードが大好きだった。

そんな先生の言葉の中で、近頃、ふと思い出したものがある。


ある時先生は「食事」について話していた。
何故その話になったのかは覚えていない。ただ、教室の空気は淀み、早く授業終わらないかなという皆の心の声が可視化できるようだったのは覚えている。
そんな弛んだ空気を気にもとめず、先生はいつものトーンで淡々と言った。

「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

えぇ、と私は小さく笑う。
先生は続ける。

「だって、欲を満たそうという姿を人に見られるのって恥ずかしくないですか? 性欲を満たそうとして性交している姿を他人に見せるのはもちろん恥ずかしい。睡眠欲のために人前で思い切り寝顔を晒すのも恥ずかしい。なのに何故、食事は食欲を満たす行為なのに人前で行うんでしょうね」

衝撃だった。
いわゆる3大欲求と言われる、食欲、睡眠欲、性欲。
これらを満たす行為のうち、堂々と他人に見せられるのは確かに食事だけなのだ。



最近、ある映画を見た。
とらわれて夏』。
脱獄犯と人質となったとある親子の数日間の交流を描いた映画だ。

この映画、見たことのある人はわかると思うのだけれど、とんでもなく「エロい」。

そこらの官能映像より余程エロい。
レーティングされるような描写は無いにも関わらず、主人公の少年から見た「脱獄犯の男とシングルマザー」という大人の男女に漂うエロスを見事に描き切っている。

そしてそのエロスを支えている大きな要素が「食事」だった。

脱獄犯が手際よくトマト缶を調理して、母に振る舞うシーン。
ただ、大の男が、調理をして人質である女に食わせる。それだけ。
それだけなのにたまらなく性的で、夜行バスでこの映画を見ていた私は思わず周りの目を気にした。


加えて脱獄犯と親子が桃のタルトを作るシーン。
これは、もう、すごい。
自分が男じゃなくてよかったと思った。
男だったら、夜行バスで、桃のタルトを作るシーンを見ながら勃たせている不審者になる所だった。
それくらい官能的なシーンだった。

母が震える手でパイ生地を完成させるシーンには絶頂を見たし、その後パイ生地にフォークで模様を描くシーンはさながら穏やかなピロートークのようだった。


そこで私は、先生の言葉を思い出したのだ。

「人前で食事するの恥ずかしくないですか?」

なぜなら欲を満たす行為という点で、セックスも、食事も同じ。
より生命の存続に直結するという点ではセックスより更に重要な行為であるとも言える食事だ。
食というエロス。
食事という行為の背徳。
夜行バスで、隣人の男性の加齢臭といびきをBGMに、先生の言葉の真意を見た。



と、食のエロス、背徳、などと言いながら、終点の京都で下車した私はもりもりと京都のグルメを楽しみました。
茶そば、美味しかったです。